ビール

* あるビギナーズ王国国民の述懐 *

 子供のころは体が弱くて、よく熱を出してはベッドに臥せっていることが多かった。学校の友達は外でスキーやそり遊びなんかをしたり、工作でモータを作って出来を比べあったりして遊んでいたけど、僕は、本当は友達と一緒に遊びたかったんだけど、天井の模様が熱のせいでゆがんでいくのを面白がっているのが大抵のことだった。一度、子供の癖に燃料で動くエンジンを作った友達がいて、それがなかなかの出来だってうわさで聞いて。見に行きたかったけど鼻水は止まらないし、関節は痛むし、そもそもベッドから起き上がることができなくて、見に行けなくて、すごく悔しかったことがある。やっとふらふらとでも歩けるようになったと思ったらエンジンはとっくにお蔵入りになっていた。その友人が回転中のエンジンに触ってしまって指をふっ飛ばしたから危険だと思われたそうだ。
 まあ、それはともかく、そんな体の弱かった僕にはそれとは別に苦い思い出があるんだ。子供のころ、大人たちが夕飯時にはいつもグラスにふたのしたような泡のつく、金色のしゅわしゅわした飲み物を飲んでいて、それがとてもおいしそうに飲んでいるように見えて。早く大人になりたいと思っていた僕はそれを飲んでみたいと物心ついたときには考えていた。別に大人のまねをすれば大人になれるわけでもないんだけど、で、母親に頼んでみたんだけど、それは当然飲ませてもらえなかった。大人が飲む物だってね。だけどあれは、そう7歳だか8歳だかの時。いつものように熱を出して天井を眺めていた僕のところにそれが入ったグラスを持った母親がやってきてこう言ったんだ。
“貴方にはまだ早いかもしれないけれど、この泡の部分を飲みなさい。とっても栄養があるから”
 僕はぼんやりとした頭で、それでも嬉しかった。これで大人に一歩近づいたと思った。それに、飲みなさいといわれた泡はとてもふんわりしていて、まるでケーキに使う生クリームを泡立てたみたいだったからね。僕はそれをほんの少し失敬して舐めるのが好きだった。そのグラスの泡もそんな感じのおいしい好物に思えたんだな。で、渡されたグラスはちょっと冷たい感じがした。ふつふつと底の方から小さな泡が昇っていくのが見えたな。それから、一すすりした。
 驚いた。クリームみたい、というのは間違ってなかったんだけど、それは、苦かったんだ。なんでこんなものを大人たちは好んで口にするんだろうと思った。母親のほうを見たけど、その母親特有のなんとなく有無を言わせぬような調子があったから、苦いのを我慢して泡を全部飲み切った。口にする前は隙があれば泡だけじゃなくて飲み物自体も飲んでやろうと考えていたけれど、口にした後泡だけでよかったと思った。泡を飲みきった僕はまたベッドに寝かしつけられた。母親は頭に乗っけていたタオルを絞りなおしてくれてから、グラスを持っていってしまった。
 それから、僕は熱を出すたびに治るまでは毎日その泡を飲まされることになったんだ。苦くってどうにもやりきれなかったけど、出されれば全部飲んだ。まあ、確かに滋養がたくさん含まれているには間違いないと今では判るけど、子供のときはなかなか辛かったなあ。何度飲んでもクリームみたいなくせに苦かったからね。おかげで熱を出すのが嫌いになってしまった。一回具合が悪くなったら意地でも早く良くなってやろうと考えたよ。今じゃあ大好きでつい過ごしてしまうこともあるけどね。本当に大人ってやつはなんでこんな苦いものを好き好んで飲むんだろうね?

* * *

 ビギナーズ王国の夜は早い。日は移ろっても春はいまだ遠く、夕日はそうそうに暗いオレンジ色に空を染め、しかし積もった雪があたりを照らしている、といった北国の夕暮れ。戦闘が一段落し、久しぶりに早めに帰ることを許された王国民が、安らぎを求めて家路を辿っていく飛行場近くの集落、意気揚々とパブの入り口に吸い込まれていく集団がある。というのは、色男参謀S×H、戦争嫌いのtacty、工具箱が手荷物のニーズホッグ、ひょろ長い無口な吏族のamur、そしてカツラを作って王国デビューを果たしたという謎の経歴を持つピストン、の面々であった。バトルメードNo.1の反省会と称してビールの好きな王国首脳が集まったのである。彼らが入っていったパブは、王国中で作られ数え上げればきりがないといわれるビールをほとんど網羅して飲めるというのが売りであり、その名も「星の数」であった。ちなみに、この集団は周りからかなり浮いている。というのは、限られた者のみが着用している王国仕官章を全員が付けていることはもちろんのこと、藩国内の羨望の的バトルメードが混ざっており、更に男性であるという現実によるものだった。
 パブの中に入った彼らに視線が集まる。喧騒が一時やんだ。とはいえ、現実は現実であり、色々な何かを正義のために押さえ込んでいる彼らはそれを無視して丸いテーブルを囲むのだった。
 再びパブの中は談笑と食器の音で賑やかになり、グラスが、ジョッキが交わされる。夜は始まったばかりである。

 彼らはビールを頼んだ。と一口に言っても全員が違うものを頼んでいる。SXHはコクとキレのバランスの良い「黄金の泉」を、ニーズホッグは細やかな味わいの「ヴァイサガルテ」、amurは香り豊かな「セニグ」、ピストンはキレの鋭い「リッピン」である。そこで、注目を集めたtactyがメニューを見ながら一言漏らした。
「ちびちび飲めるビールが良いなあ」
 ふむ、とamurが頷き答える。
「それなら「淡雪」は如何ですか。果物の香りとすっきりとした甘みの良いビールですよ」
「じゃあ、それにしてみます」
「あれ、ビール好きなんだよね」
 SXHが聞いた。
「そうなんだけど、酒には弱くて。すぐ酔っちゃうんで一杯をゆっくり飲みたいんです」
「そうかあ。ビールがのどを通っていく旨さを味わえないのはもったいないなあ」
「お待たせしましたぁ」
 犬耳をつけたウェイトレスたちがビールと料理を3人がかりで持ってきた。テーブルを埋めるジョッキ、それにブルーチーズやアンチョビ、キャビア、りんごなどを使ったカナッペ、、色が濃く鮮やかなレタスの上に山と盛られた様々のソーセージはマスタードやわさび醤油、りんごを使った特性ソースつき。大根やレタス、クレソンなどの野菜とトナカイのサラミのサラダはレモンの簡単なドレッシングで飾られて、丁寧に焼かれてまだ血の滴っているローストビーフとピートを使って風味良く仕上げられたスモークサーモンは赤で鮮やかに。一同は歓声を上げた。
「おお、旨そうですね!」
「これから暖かいものがくるからこっちを食べちゃおう」
「こんなに食べたら太ってしまいますね。バトルメードは自己管理も徹底されていますのにー」
 最後の台詞はピストンである。一同は少し黙った。
「大丈夫ですよ、きっと(メードガイだし)」
「そんなの気にしていたら料理の味がわからなくなるぞ(メードガイだし)」
「ジョッキは回ったな戦闘の勝利を祝してバトルメードに乾杯」
 と口早に言ってS×Hがジョッキを差し出した。一同は唱和する。そして沈黙である。がちん、がちんと音がした。続けてごく、ごくとのどを鳴らす。唸りながらジョッキを置けば、全員が白いひげをつくっていた。
「たまらんなあ」
「仕事の後はこれに尽きる」
「やっぱりこいつは何にも代えられないなあ。ビールの旨さってのはやっぱりこれですよ」
 やはり最後のピストンの台詞に、amurが片眉を吊り上げた。すぐに下ろす。
「いやあ、エールもいけますよ。旨みもコクもラガーにはなかなか出せないものがあります」
 と聞いてピストンがん? という顔をした。
「旨けりゃそれで良いじゃないか」
 とニーズホッグが言った。それはそうだ、と一同は頷く。
「旨いビールがあって、旨い料理があれば人間ひとまず幸せになれるってもんさ」
 S×Hは高々と空のジョッキを掲げる。
「ビールおかわりー! それからいただきまーす!」
「「いただきまーす!」」
 何といっても食べ物でその勢いを拡大してきたビギナーズ王国である。生きるためにはまず食べろ、とは子供でも言う事、一同はテーブルを埋め尽くした料理に取り掛かった。ついでに、拙速を旨とするこの店のおかわりはすぐにやってきた。
 カナッペを口に放り込んでビールを飲む。ソーセージのぷりぷりした触感を楽しんでビールを飲む。サラダのひりっとした風味に心洗われてビールを飲む。ローストビーフの頬張ってその肉汁のうま味にやられてビールを飲む。スモークサーモンの歯触りと上品な香りを味わってビールを飲む。…味の彩り豊かに供された料理とビールの組み合わせのもたらしたのは至福の一時であった。舌をとろかし脳みそをとろかし、一同は暫く無言であるか旨いとしか言わない。書いている者もビールが飲みたい。全く餓鬼の有様で御馳走にかじりついていた一同は、人心地ついてようやくまともな言葉を交わすようになる。
「旨い。たまらん」
「このチーズは香りが良いですね。食べる前からよだれが出ますよ」
「サラダ旨いよ。サラミがいいアクセントだ」
「ビーフとサーモンは風味の付け方がちゃんと違っててどっちもうきちんと味わえるね」
「おいしいですね~」
「ビールが進むなあ! ゆっくり飲んでられない! ビールおかわり!」
 ピストンが声高らかに宣言すれば、はは、とtactyは軽く笑った。それを見つけてamurがはっはっはと笑った。少しぎょっとする一同。普段この男は無表情で通っている。
「うお。amurがそんな風に笑うの初めて見た」
「いえいえ。そんなキレばっかりのビールを飲んでもねえ、と思いましてね」
 と妙に朗らかにamurが言った途端空気が変わった。エプロンドレスが野蛮の表現たる軍服と見る者にはっきりと知れる空気である。バトルメード(ガイ)は、帝國の娘であり、帝國の体現者を自負しており、奉仕の精神とその誇り高さ、気高さの相克など決してない。つまり、ピストンははっきりむっとしたのである。
「何を言うのです。ビールの美味しさを口で言ってもしょうがないでしょう。喉で味わうところにビールの良さがあります」
 と幾らか大げさに言った。amurは自分のビールを喉を鳴らして一気に飲み干した。彼のビールはまだ一杯目。
「旨いですね。しかもキレだけじゃない」
 とtactyに言った。挑発的である。ピストンはガタンと席を蹴って立ち上がった。
「ビール! 私が飲んでいたものを二つ! …tactyさん」
「は、はい?」
 唐突と言えば唐突な展開に、tactyは及び腰、勘弁してムードである。
「やっぱりビールは下面発酵、ごくごくと喉を通り過ぎるあの瞬間がたまらないですよね!?」
「はあ、いや、あまり量は飲めないんですよ」
「ピストンさん、酒は適量を好きなようにが一番ですよ」
 amurは勝利の表情、悪役面も甚だしい。歯噛みするピストン。
 急な対決に呆気にとられながらひそひそ話のS×Hとニーズホッグ、
「下面発酵てのは何です?」
「ビールの発酵のさせ方の一つですな。大まかに上面発酵と下面発酵があって、本当に大雑把にいえば、さっきamurが言っていた、上面発酵でエール、下面発酵でラガーができる。amurが香りとコクのあるエール派、ピストンがキレのあるラガー派」
 律儀に解説である。
そこで「ここで引くわけにはいかない…!」と魔法のようにビールで満たされたジョッキを取り出しピストンはtactyに差し出した。はっとしてamurが「いつの間に?」と言えば、ピストンは得意満面で口を開く。
「主の言いつけに前もって備え何が起ころうと対応できるようにしておくのがバトルメードの勤め! これくらいはごく簡単なこと、で、す…」
 と、勢い込んで喋りだしたピストンの台詞は、尻すぼみであった。これでは酒の強要である。酒の強要は善くない。犯罪、ともすれば殺人である、と思い至ったのである。勢い任せのようで結構いろいろ考えているピストン、なんとなくしょんぼり耳にしょんぼり尻尾のバトルメード(ガイ)。なぜかS×Hは涙を流した。
 しかし、tactyはジョッキを受け取った。飲むことにした。この人物、戦争嫌いのくせに人が大変なのを見過ごせずにその後参謀になった。ビールを飲むのもピストンが困っているのを見かねてである。周囲注目の中、ジョッキの全てとはいかなかったが、ピストンは喉を軽快に鳴らしてビールを飲んだ。ジョッキを置く。大きく息をつく。
「旨い。旨いけど、眠くなってきた…」
 顔が赤くなり、まぶたが閉じかけである。
「…おいしい、ですよねー?」
 と、勢いを取り戻しつつピストンが言う。
「なんということを。いくら帝國内外から人気のあるバトルメード(ガイ)とはいえ何をしても良いというわけではありません」
 と抗議するamurに今度はピストンが勝利の表情である。腕を組んでamurを見下ろした。
「何をおっしゃるのです。おいしいものを人に勧めることのどこがいけないというのですか」
「そこまでの覚悟ならば今度は吏族の力というものをお見せしましょう」
「それは楽しみですわね」
 睨み合う二人。S×Hとニーズホッグはやれやれという表情である。
「旨けりゃ何飲んだって良いと思うが」
「この前amurとそのラガーとかいうの一緒に飲んだしなあ」
「ピストンもエール飲んでこれもおいしいって言っていたぞ」
 それからため息の合奏をした。tactyは既に夢の中。そこで、大好きなビールを好きなだけ飲んでいた。

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